追想記
AMAKIRIは2018年の1月に風呂場で思い立ってすぐに始めたプロジェクト。
早いものでもう2年も経ったのか。
1st収録曲は学生時代に作ったデモが元になっている。
当時どんな気分で作ってたのかも半分忘れたな。
録音は殺伐な気分の中で憑りつかれた様に2月から始めて、
2018年8月だから半年ぐらいで全部録り終えた。
シングルカット?した「KUSHANIA」を聴いていると当時の心情を思い出して
今でもかなりキツくなる。
しかし、その現実から目を背けなかったからこそ完成した曲でもあると思っている。
まあ口を開くと暗い話ばっかりしてしまうので、
今回は楽しかったアーティスト写真の撮影秘話でも話そうかと思う。
アルバム制作にあたって、アーティスト写真的なものが絶対必要だろうと常々考えていて、
写真を撮るならどこが良いんだろうかと色々と撮影場所を模索していた。
アルバムの雰囲気と自分がかなりの廃墟マニアなのも相まって、関西圏の廃墟で撮るのが一番良いと判断して、
そこからなんとなく廃墟でのロケ地を色々と調べていた。
今思い出すと、ネットサーフィンして廃墟を調べまくってた自分が一番活き活きしてたな。。。 笑
そこから今回撮影を行った関西の某廃墟を発見し、すぐに古野さんとMitzkiさんに連絡。
皆の日程調整もできて、晴れて念願の廃墟でのアーティスト写真撮影に至ったわけである。
当日は快晴で、僕は朝一からロケ地までレンタカーを飛ばしていた。
その廃墟については住所などは知っていたものの、どんな場所に立地しているのかであったり、
近隣に駐車場があるかなどは全く調べていなかった。。今考えると浅はかである。
そして昼過ぎごろにようやく現地に到着。
幸いにも当日はロケ地近くの学校で文化祭は行われていて、
バリバリに化粧をしていた自分もそれほど違和感なく現地の人たちに溶け込めていた(単なる勘違いかもしれない)。
まあ何にせよ、なにも言われず現地に忍び込むことができた。
しかし、ここからが問題である。
Google mapを開きながら歩けど歩けど、ロケ地に辿り着かない。
山の中を右往左往している最中に雰囲気のある沼を発見。
とりあえずはここで撮影しようと何枚か沼で写真を撮った。笑
しかし、肝心の廃墟が一向に見つからない。
当時の自分は気が狂っていたので、ギターを担いだまま急な崖を越えようとしたり、無茶苦茶なことをしつつもようやく廃墟に辿り着いた。
薄暗い森の中で、木漏れ日に照らされていたその廃墟は、何年もの月日の中で崩壊しかかっていたが、確かに「廃墟美」を実感できた。
何の為に作られたかよく分からないランダムな建造物。突如現れる建物と建物の間の長い長い一本道。
コンクリートに張り付いた苔。どれも最高だった。
帰る時間も計算すると、あまり長居はできそうに無かったためすぐに撮影開始。
最後に撮ったデカいパイプ?の下での写真がベストショットだったと思う。
本当に夢のような時間だった。手伝ってくれた古野さんとMitzkiさんには感謝しかない。
アルバムが完成した時にも感じたが、何か一つ大きな経験ができたという感覚は
何事にも代えがたい自分の宝物であると今になってもそう思う。
AMAKIRIはこれからもゲストボーカルを迎えて、ゆるく活動するつもりである。
楽曲の方向性なども決めずに、自分自身の今の感覚を伝えられたらと思っている。
今はmynaのセカンドアルバム作成中。間違いなく名盤になるはずだ。
廃墟で昼飯を食べるという夢はまた今度の機会にとっておくつもりである。
追想記2
ブログ更新。今考えていることを書き留めておこうと思う。
つい先日、2.3年前に書き留めたメモ書きみたいなものを発見して、内容を全く覚えてなかったのが少しショックだった。
考えていたことなんてすぐ抜け落ちていくのだから少しでもここに残っていればというのが今回のブログ更新のきっかけです。
かといってここに書けそうな内容もあんまりないな。。
音楽でいうとここ数年は、作曲というよりも曲の構成とかリズムについて考えたり、
ギターでひたすら好きなアーティストのコピーしたりしている。後は久々にピアノの譜面を買って練習したりとかかな。
普通の人はこういう所から始めていくと思うんだけど、
自分はそういうのをすっ飛ばして作曲とかアレンジばっかりやってしまってたので、音楽の地を固める作業は正直慣れてない。
まあそういうやり方で良かった面はたくさんあるので全く後悔はしていないです。
今は地を固める時期と割り切れているっていう感じかな。
あと、こういう基礎練的なことをやっていると、改めて自分の武器はフレーズの発想であったり音の使い方とかなんだなと思った。
勿論、今までそこに特化して、楽曲の全体を踏まえた雰囲気を作れるようなギターを弾いてきたつもりだったけど、
良い悪いは別として自分はむしろそこしか出来ないんだなと痛感してしまった。そこが知れただけでも今の行動に価値はあると思う。
AMAKIRIの1st制作時は正直自分がどういう音楽をしたいのかというのがまだはっきりと見えていなかった。
何となくデモで作った曲の方向性が近かったので7曲にまとめて発表たという感じで、
「これだ」っていう感覚は正直無かったと記憶している。
しかしここ数年は、色々なジャンルのギターを弾いたり、機材を勉強する中で
音楽との向かい合い方について考える機会が多くなっていて、ようやく自分のやりたいことが固まってきたのが実感としてある。
1stは、案外自分の本意に近かったのだなと改めて思った。
まだこれからでわからないけれど、もし2作目を作ったとしても1枚目と大きく方向性は変わらないんじゃなかなと今現在は思っている。
時代はどんどんと移り変わっていく。
自分も変わらないといけないと思う部分がありつつも、
周囲に合わせようとか、いろんなことに挑戦しようとかそういう気持ちはあまりない。
手に取れる範囲で、機を逃さずにというのがスローガン。
基本的に何事も継続しないと限界の先は見えてこないと思っている。
24歳で作曲することに限界を感じた時も、「俺はまだ何も見えていないだけなんだ。もがくことを忘れてはいけない」
と自然とそう思えていた。これは学生時代の経験が大きいと思う。
何年も時間を掛けないと見えてこないことというのはどんな物事にも絶対にあって、
途中で飽きたりダラダラとする時期があったとしても、辞めずに考え続けることこそが物事を極めることにつながると思っている。
これは人間関係にも通じることだと思う。なので多くのことには挑戦しない。
自分ができる範囲のことだけを地道に続けていこうと思っている。
しかし、バンドは別だ。生ものである。
こうなればいいななんて思っているとすぐに駄目になって取り返しがつかなくなる。
今、mynaをやれていることは奇跡に近いし、この機会を失ってしまわないよう気を緩めず行きたい。
まあこんな感じかな。以上。
追想記3
音楽的20代の振り返り
もうすぐで30歳を迎えようとしている。
なので記憶が新しい内に、20代の音楽的総括をしようと思う。
20代は一言で言うと「我慢」の10年間だった。
今でも覚えているが、成人式の頃は大学浪人中で、周囲に自分と近い思想の人間が居なかった(今でも居ない)のもあり、
世の中に憤りを感じていた。今から考えれば的はずれというか、「日々の無慈悲な労働」を知らない学生の発想でしか無かったと思うが、
当時の自分にとっては紛れもなくそれが音楽を作る大きな原動力になっていた。
そこから大学に入っても、しばらくは音楽漬けの生活。
当時はある一定の繰り返しのフレーズに音を重ねる練習をして、そこからなんとか曲にしようとしていた。
AMAKIRIはその積み重ねの延長線上にある曲がほとんどになる。
大学の夏休みは一曲のアレンジに全部使っていたり、今考えるともったいない時間の使い方をしていた。
ちなみに初めて買ったエフェクターはBOSSのDS-1の日本製だった気がする。3000円くらいだったので今考えると破格だったな。
初めてのまともなギターは、今は亡き梅田の中井楽器で買ったvanzandtの白いテレキャス。確か16万くらいだった。
その当時サークルに入って仲良くなった同級生と買いに行った。その友人は島村楽器でUSA製のjaguarを25万くらいで買っていた記憶がある。そのテレキャスは初めてオリジナル曲を演奏する時に使ったんだけど、テンパりすぎて角にぶつけてしまって今でも傷がはっきり残っている。はじめてブリッジとピックアップ改造したり色々思い出のあるギターだ。
バンドを組んだり、作曲したり、バイトしたり、大学に行ったり。。
部屋で色々やってはいたが、それでもありあまる時間。
ずっと部屋に篭って空想に耽って一日中過ごしていると、トリップした様な繊細な気持ちになる。
あの感覚はもう二度と戻ってこないような尊いものだったと今では思う。
そんな当時の曲は社交性のない、空想にどっぷり浸かった異様なものばかりで、
今聴くとアイデアとしては凄く面白いものが多かった。
そんな感じで大学に入ってから2年間は過ごしており、大学3年生になりようやくmynaに加入した。
ギターを始めて間もない自分にとって、mynaは遥か上空の未知の存在であり、
そこに自分がいる事は想像できなかったが、皆さんのご厚意でなんとか加入させてもらった。
古野さんと真鍋さんとの出会いは間違いなく人生のターニングポイントであり、今までの音楽への価値観を一変させられる機会になった。
あまり音楽について言葉を交わす機会は無いけれども、古野さんの歌や、真鍋さんの音から教わったことは数え切れない。
正に背中を見て育ったという感覚である。
他に音楽的にmynaに加入して良かったと感じる事は、
①ダウンチューニングの可能性を知ることができた事と、②古野さんが歌うという事を前提にする事で作曲の幅が広がったことである。
大学3年からは自分の中でサイケデリックミュージックがブームになっており、古野さんがそういう曲を歌う姿を想像して色々な曲を作った。
プラグインのクラックソフトを買い漁り、その中で出会った【ETHNO WORLD5】の音源はその後の方向性を決定付けるものになった。
その音楽制作と同時並行で、ライブ活動、新聞社での夜勤バイト、卒論、就活、彼女。。と目まぐるしい程忙しい生活を過ごしていた。
ほんの1.2年前まで引きこもり同然の生活を過ごしていたので、当然体がついてかず、夜勤バイト前に救急車で軽く運ばれる事もあったりした。苦い経験としては、4回生の単位の落とせない試験日とライブが重なり、テスト後にリハなしでライブをしてボロボロだったのが今でも夢に出てくる。。笑 あれは酷かった。
そこから卒業し、怒涛の社会人生活に入る。
mynaはちょうど入社のタイミング頃にメンバーが脱退し、活動は休止していた。
録音•CD製作を経験していない事にコンプレックスを持っていた自分はそこからAMAKIRIの活動をスタートしていく。
あまり仕事について言及しないが、社会人2年目に山場があり、そのタイミングでAMAKIRIの製作に入っていた。
当然心身共にボロボロだった。
しかし、その頃も意地で作曲は続けており、その当時作ったのが「August in the water」だった。
心斎橋の大阪CLAPPERで幾何学模様のライブを見て、それに触発されて作った曲で、作り始めて3日(土日挟んで1日仕事ズル休み)で完成させた。後々、アウトロのドラムアレンジを古野さんがやってくれて、ジャムっぽいドラムに良いギターが乗せられたのが嬉しかった。
そこから、撮影、ジャケットイラストの製作依頼、ミックス•マスタリングを経て、2019年11月に日の目を見ることになる。
金が無いのでミックス(一部)とマスタリングを自分で行い(と言ってほとんどNeutron/Ozone頼み)無理矢理完成まで持っていった。
一から一通りやってみて、めちゃくちゃ視力も落ちて、相当大変だっけど、それだけ時間掛けても発表したい曲だったしとても良い経験になった。何より自分の活動が目に見える形になって残ったのは何にも代え難い喜びだった。
そこからmynaにメンバーが加入し、2ndミニアルバムの製作に入って現在に至る。
ここ2.3年はそんな感じでmynaのギター録音を終えて、自分の曲を作ったり、今までやってこなかった様な色々なアーティストのコピーをしたりしている。なんとか20代にmynaのミニアルバムを発表したい願望があったが、チームプレイなので仕方ない。
30代の楽しみに置いておこうと思う。
ダラダラしてしまった時期もあったが、どんな形であっても音楽を辞めなかったのは自分でも誇りに思う。
30代はドラムにも挑戦したいし、ライブももっとしてみたい。まだまだこれから。